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    Feature特集

    対談 古賀純二×手島純也 私にとってのフランス古典料理 Vol.2

    『CUISINIER ONLINE』で始まるオテル・ド・ヨシノシェフ手島純也さんの連載「フランス古典料理」。その開始に先立ち、京橋シェ・イノの料理長を務める古賀純二さんに、手島シェフとの対談を依頼しました。

    テーマは、それぞれにとっての「古典料理」と、それを「伝えていく」ということ。日本を代表するフランス料理人に学んだおふたりに、さまざまな角度からお話いただきました。(全4回)

     

    左:古賀純二 1964年生まれ。調理師学校卒業後京橋「シェ・イノ」に入店し、井上旭氏のもとで修業。2004年より同店料理長を務める。平成二十八年度「卓越した技能者(現代の名工)」に選出される。

    右:手島純也 1975年生まれ。山梨のフランス料理店で修業後、パリ「ステラ・マリス」に入店。吉野建氏のもとで研鑽を積み、帰国。2007年より和歌山「オテル・ド・ヨシノ」料理長を務める。

    PHOTO: CHISATO HIKITA

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    Vol.1 フランス料理のレシピと食材

    「美味しいもの」への気持ち

    編集部 手島シェフは古典料理を日々本で読んだり、見直されるのが常になっていますよね。

    手島 はい、そうです。

    古賀 やったことない料理にも挑戦するわけでしょ?

    手島 そうですね。

    古賀 で、何回も作り込んでいくんでしょ。

    手島 ええ。そうでないと当然、美味しさがわからないので。あと、僕の考え方なのですが、基本的に才能がないので、繰り返してやるしかないんじゃないかと。

    古賀 才能がなかったら今のようにはなっていないでしょう。その上でまたさらに努力をしているから、より確固たるものになるんだろうね。

    手島 当たり前のことかもしれませんが……同じことを何回も意識してやっていると、見えてきます。あ、これはこういうことなんだってわかってきます。

    古賀 あと、(手島シェフは)考えていることがわかりやすい。単純ということじゃなくって、人から見てシンプルだから、みんな安心できると思うんだよね。この人何考えてるかわからないよな、っていう人が料理を作ると、もちろん美味しいものは作って、一貫性はあるんでしょうけど、一貫性の見えづらいことがあるじゃないですか。手島シェフの場合、すごくみんなから見えやすいし、考えがシンプルだからこそ、やっていることがぶれないんだろうね。

    手島 (苦笑)褒め言葉と受け取ります(笑)。

    編集部 古賀料理長は古典料理を見直す機会をもたれることはあるんですか?

    古賀 ありますよ。たまに、お客様のリクエストがあったりすると。何となくお客様の感覚の中に残っている料理があって、「あれとあれが使ってあって…」とおっしゃるので、僕が(あの料理のことかなと思い)「それはあれですね」と答えると、「いや、それはわからないんだけど、こういった料理がもう一回食べてみたい……」と。そうなると、「そのときのものよりもっと美味しいものを作ったろう!」ってなる。

    それで、写真とかを調べて探して、まったく同じではないけど同じように見せて、もっと美味しかった……と。

    でも、20年前に食べたものを食べたいってリクエストされるのは、困るは困るんですよ(笑)。まったく同じものはできませんよと言うんですけど、「あの感覚に戻りたい」というお客様の気持ちは、大切にしてあげたい。そうなると、手島シェフが今回の(連載に向けた)撮影で調べたように、僕も調べます。そのときに、「こんなことしたらこうなるんだ」っていう発見はやっぱりどこかに隠れていて、そういうのがまた楽しいんですよね。

    編集部 お客様の思い出にあるものよりさらに上をいくのは、かなり難しいのでは。

    古賀 もっと美味しいって思わせたいという願望ですよ。井上さんが(帰国した当時)そう思っていたように。フランスのそれよりも、もっと「うめえもん」を作ってやろうって、闘志がみなぎっていたわけですから。でもその闘志っていうのはお客さんに伝わったわけですし。フランスに行ったことがない人でも、ある人でも、本当に美味しいと言ってもらえたっていうのはすごい。

    僕は、学生時代フランス料理を美味しいって思ったこと一回もなかったんですよ。で、ドゥロアンヌ(井上シェフがシェ・イノの開業前にシェフを務めていた店)に研修に行って、鍋に残った冷めたソースをなめたときに、「ああ、うまいものはもう、冷めてもなにしても、世界共通でうまいんだな」っていうのがすごくはっきりとわかって。だからフランス料理をやっていこうって思ったんです。

    編集部 鍋の底のソースでそう思ったんですね。

    古賀 うん。うまいものはうまいんですよ。中学校、高校って、僕、フランス料理やりたいって思っても、一度も食べたことがなかったんです。近くにお店がなかったから。専門学校に入ってから初めてホテルで食べて、がっかりして。テーブルマナー教室とかで、冷めきったがちがちの料理で……これをみんなありがたがって食べるのかと思うとすごい悲しくなってきちゃって。フランス料理ってこういう料理なんだ、って。

    編集部 がっかりですか。

    古賀 がっかり。本だけ見ると、きらきらしてるし、前菜もあるし、デザートまでちゃんと作るわけじゃないですか。うわ、ケーキまで作れちゃう。フランス料理ってすごいなって思って。それで、日本一のレストランを紹介してくださいって校長先生に頼んで行った先が、井上さんのところでした。そこで味を見れたっていうのは、やっぱり幸せだったのかもしれないですね。

    編集部 そうですね。

    古賀 相当つらかったけどね。

    手島・編集部 (苦笑)

    編集部 修業時代は相当なつらさだったと。

    古賀 想像を絶するようなつらさでした(笑)。田舎者の僕には、「東京に来るべきじゃないのかな、僕なんかって」思ったくらいで。本当に。(最初の数年は)料理の味見をできたのなんて、たぶん3回くらいしかないんじゃないかな。皿も洗わせてもらえなくて、すぐ「どけっ」とか言われちゃうし。調理場入っている時間なんて、一日のうち15分くらいしかなかったんじゃないかな……。

    12月のクリスマス時期の東京は、すごく寒いじゃないですか。非常階段で、スチールウールみたいなのと銅鍋をポイッて渡されて、サーモンマリネの塩と胡椒に酢をドボドボーッて入れられて、「これ磨いとけー」って。寒いし、酢と塩だし、今みたいに手袋なんかないから、1日であかぎれですよ。

    当時は寒いからって上着を着て作業するなんてこともなかったから、地肌にコックコート一枚でね。手は痛いし、眠くなるし、寒くて眠くなるっていうあの……。「ああ……これ、眠くなってるんじゃなくてやばくなってるんだな……」って(笑)。

    手島 「どういう実体験ですか」(一同苦笑)

    編集部 辞めていく人も多かったのではないですか?

    古賀 めちゃめちゃ多かったですよ。でも、そのうち、この人はやめる、これは続くかな、とかそういうことすらも考えなくなるんです。続けてくれたらいいなって思っても、やめちゃったらショックだし、また自分の仕事が増える。だから最初の一年で、新しく入ってきた人には期待しないって決めて。そこで時間取られちゃうと、結局僕に返ってきて、当時は殴るけるということのある時代だったから先輩にボコボコにされて。そうしている間にまた時間とられちゃうわけだから、いかにボコボコにされないかを考えるようになって。

    編集部 壮絶ですね……。

    古賀 壮絶です。(一同苦笑)

    古賀 ……でもそんなこと、誰もこれっぽっちも何とも思ってなくて。ちょっと気をつかってやさしい言葉をかけるなんて、誰も思っていなかったです。まあ、そういう世界だったから別に……でも、僕は「変えてやろう」って思った。

    編集部 手島シェフは、修業時代シェ・イノさんで研修をされたと伺いました。

    手島 ええ。1カ月に1回くらいのペースで。

    古賀 うん。まだかわいいころ。まだ、目がつぶらだったころ。いまでもつぶらだけどね。何年前だった?

    手島 ちょうど20年前です。僕、今42なので、21、22の頃。

    古賀 僕が32、33の頃。

    手島 はい。ソーシエをされていました。

    古賀 すっごい昔のイメージがある。

    手島 (調理場に)井上シェフがいらしたときの空気の変わり様といったらなかったですね。誰も何もしゃべらなくなるという。(苦笑)

    古賀 当時はまだそういうのあったね。

    手島 それまでは、まだ何とかその場にいられても、(井上シェフがいらしたら)いられないという感じでした。研修で行っているのに、逃げたい感じ。

    古賀 (笑)。でもまあ、仕事をしっかりしてればよしとする人だけど。

    編集部 辞めようと思われたことは?

    古賀 何回も辞めようと思ったこと、本当にありますよ。でも、最初のときと、もうちょっと経験を積んだときとは、やめようと思った気持ちの質がちょっと違いますけど。

    最初のうちは、このままここにいたら立ち直れなくなるんじゃないか、とか。こんな純粋な少年が、どんどんけがされていくんじゃないかとか思ったりして。やっぱり人間だから、ラクしたいってどこかで思うわけですよ。長い時間働いて、痛い思いもしたりして。こんな大変な思いをしてるやつ、同じ世代で誰もいないだろうなって。だからこそがんばろうって思う分、昔の友達とかに会うと、ボーナスいくらもらったとか、休みもこれだけあるとかって聞くと、いいなあって、思うわけですよ。

    ……とにかく時間が欲しかったですね。お金よりも時間がやっぱり欲しかった。ずっと仕事で、休みの日は、夕方まで寝て終わり。だから、土曜の夜に、みんなで遊びに行けたことが一番楽しかったですね。六本木に行ってたんですよ。当時は日曜も営業していたんですけど、スタッフは交代でやっていて、夜からの営業だったから、土曜の夜は夜みんなで遊びに行けたんです。それだけが楽しみだった気がする。そういう楽しみがないと、続けられなかったですね。

    編集部 立ち位置が変わってから辞めたいと思われたのはどういった心境だったのですか?

    古賀 違う料理を作ってみたいって思うことがあったんですよ。30代になってから。本を読めば読むほど、食べに行けば行くほど、「このままこの料理をずっと作っていくことになるのかな、僕は」ってちょっと不安になる。さっき(Vol.1で)言ったように、そういう時期を経て、今みたいに(シェ・イノの料理を作り続けていけたらと思うように)なっていると思うのですが、お客様の言葉に勇気づけられたことがあって。「この料理をできるのはあなたしかいないんだから、守るべきでしょ」という感じの。「もちろん(あなたの作った)他の料理も私は食べたいと思うけど、井上さんの料理はあなたが守らないとどうするの」

    ……そういう言葉があったから、それもそうだなあって。(他の誰かに)教えて作らせていればいいっていうのじゃなくて、作り続けていかなきゃいけないなっていう感覚にさせてもらったというか。

    お客さんに恵まれているんですよ。ということは、井上さんがそういうお客様をつかまえているっていうことが、すごいなあと思います。

    編集部 手島シェフが、今の道を決めたのは最初からではないですよね。

    手島 そうです。雑多に食べていて、自分が感動した料理は何だったかを考えたときに、こういうタイプの料理だったということです。最初はわからないわけです。それが当時のフランスの古典なのか、新しい料理なのか。それで、本などで調べて、こういうことが古典なのかと。自分が美味しいと思うもの……シェ・イノのマリアカラスが筆頭でしたが、どういう料理が一番好きかと言ったら、そういう(古典と呼ばれる)料理が好きだった。僕はそれを勉強したいと思っていて、吉野シェフに弟子入りしたわけです。

    パリで、日本人的な感覚をうりにしているわけじゃなくて、古典で勝負していたというスタイルにあこがれたんです。それで、実際に食べて、ノックアウトですよ。

    古賀 吉野さんみたいなタイプの人って、ほとんどいないよね。

    手島 今はそうですね。

    古賀 日本である程度軌道にのった店をそのままおいてきた、というか全部止めたわけでしょ。それでむこうに渡って勝負して。その感覚、すごいなと思う。何歳くらいで渡られたのかな。

    手島 42くらいです。今の僕と同じくらいですね。

    古賀 すごく話題になったんですよね。当時の(クラブ・)デトラントの人たちが、大丈夫かって。心配する声が多かった。僕は当時使い走りで、「すごいな」って。日本でしっかり確立されているのに、それを閉めて臨むって、かっこいいなと思いましたね。自信があってのことだと思いますけど、ちゃんとしっかり成功されて。

    編集部 手島シェフは、吉野シェフのもとで修業される間に心境の変化はあったのですか? 他の料理を作ってみたい、など。

    手島 僕は古賀シェフのようにひとつの店でずっと修業をしてきたわけではなく、外の店でも働いているんです。フランスに行って最初の2年、吉野シェフのところでお世話になって、そろそろ僕も外を見たいと思っていた時期に、ワーキングホリデーをとれるように吉野シェフがしてくださいました。審査も通ったのですが、一度日本に帰って再訪したらパスポートの関係で取り消しになってしまい、そのタイミングで一度辞めて、パリの別の店も経験しています。パスポートの件ではシェフに怒られましたが、ことあるごとに、飲み会などに呼んでいただいたりして、関係は良好でした。

    その後、本当にフランスから帰ろうと思ってシェフのところに相談に行ったときに、今後が決まっていないなら、新規オープンする日本の系列店でやらないかと言っていただいたんです。結局その店は、いろいろあって最後の最後でオープンの話がなくなってしまったので(笑)、ひとまず芝の店に入りました。銀座の店がオープンする前でしたね。

    それで、芝でやっていたときに、和歌山の料理長がやめて、誰か行くかという話になり、手を挙げました。フランスで肉ばかりやっていたから、魚もやりたいと思っていましたし、和歌山の店はある程度自分にまかせてもらえる部分があるということも聞いていたので、そういうところで料理長をやりたいという気持ちもありました。30歳でした。僕は都会の生活のペースがあまり合わないと思っていたので、その点でも惹かれましたね。

    編集部 吉野シェフのお料理以外も見てみたいと思いつつ、古典料理から離れるという気持ちはなかったのでしょうか。

    手島 ないですよ。もうその時には、そっちで生きていくと決めていましたから。フランスに行った時点でそうでした。でも、行ったら行ったで、学ぼうと思っても、ほとんどそういう料理がないのが現状でしたが……。(手島シェフがフランスに渡った2000年代前半は、スペインのエルブジの料理を筆頭に新鮮に映るものが注目されるなど、フランス料理がゆらいでいた時期といわれる)

    古賀 吉野さんとの関係性は、ほとんど変わってないでしょ。手島シェフは。

    手島 そうですね。

    古賀 同じような感覚で、ずっときているんだろうね。うちはずいぶん縮まってはいるけど。絶対にくっつくことはないけど、でもかなり縮まっている。

    手島 前よりは緊張しなくなったと思います。でも未だに、いたら緊張しますね。

    古賀 みんなそうだと思うよ。シェ・イノの卒業生で、たまにここに来て、未だにピッてなる人もいる。僕より先輩の人なのに。僕はずっと一緒にいるから、どんどん薄れているけど、そういう方たちは昔の感覚が残っているから、いきなりタイムスリップして、ピシーッとなって、しゃべる声がいきなり三倍くらいの大きさになって。そういうものなんですよね。

     

    Fin.

    次回はヌーヴェルキュイジーヌ、キュイジーヌモデルヌ時代のお話です。